邦楽史上、津軽三味線の始祖とされる伝説の三味線弾きといえば仁太坊である。
本名を秋元仁太郎(あきもと・にたろう)という。
「坊」とは坊様(ぼさま)の坊。津軽地方では門付け(かどづけ)をする男性の盲人のことを坊様といった。門付けとは人家の門前や庭に立って音曲を演奏し、祝儀を受け取る大道芸能の一種である。元来は季節によって神が家々を訪れ祝言を述べたという民俗信仰に由来する。仁太郎もまた坊様として活動するようになり「仁太坊」と呼ばれることとなった。
1857年(安政4年)に金木新田(かなぎしんでん)の神原(かんばら)村(現在の青森県五所川原市金木町神原)に生まれた仁太郎は、8歳で天然痘にかかる。感染力と致死率の高さから人々に恐れられていた天然痘は、江戸時代には子供がかかりやすい小児病として繰り返し流行した感染症だ。高熱が続いた末に命を落とす例が多く、治癒しても顔や手足に発疹の痕が残る。仁太郎は奇跡的に一命を取りとめたが、失明してしまう。
所属できるのは盲目の男性のみ。盲目の女性向けには瞽女座(ごぜざ)と呼ばれる同様の組織が存在していた。
門付けや按摩の縄張りを当道座に独占されることによって、盲人の職業的な保護を幕府公認で行ったわけである。当道座での修業を経ることで、門付けをして米や金銭を受け取ることが許される。
しかし、当道座もまた封建体制の中の身分制組織であり、渡し守の子である仁太郎は当道座に入ることが許されなかった。渡し守のような「筋目悪しき者」の子は、当道座では弟子に取らないこととされていたのである。
そうしていながらも、失明後の仁太郎は周囲の村人らが驚くほどの聴覚能力の異様な発達を見せていた。そんなある日のこと、神原村を流し歩いていた瞽女(ごぜ、盲目の女性旅芸人)が奏でる三味線の音色を耳にした。このことが仁太郎の逆境の少年期の一大転機となるのだった。
瞽女が奏でる三味線の音色に激しく心を動かされた仁太郎はこの頃10歳。父・三太郎が瞽女に願い出て仁太郎に三味線を習わせると、たちまち才能の片鱗を見せ始め、異様な習得能力でたちまちさまざまな曲を覚えていった。この時から仁太郎は三味線弾きとして生きていくことを決意しているのだが、そのしばらく後、再び仁太郎に逆境が襲いかかる。父・三太郎の急死である。
三太郎は岩木川の河原の舟小屋に住み渡し守を務めていたが、ある日、悪天候で増水した岩木川で流されあっけなく水死してしまう。なお、仁太郎の母は出産後しばらくして体を壊して亡くなっている。
父・三太郎が亡くなったこの年は慶応2年(1866年)のことだった。こうして天涯孤独の身となった仁太郎は、いよいよ三味線一本で生計を立てていかなければならない窮地に追い込まれてゆく。
だが、時代は幕末から明治に向かう歴史の激動期である。
明治維新後の1871年(明治4年)の太政官布告「盲人之官職自今以後被廃候事」の布告によって、当道座が廃止・解体されたのだった。
当道座の解体は、それまで幕府の管轄下で座頭たちが独占していた芸能の開放を意味する。身分制の廃止によって誰がやってもよいことになったのである。「筋目悪しき者」とされ当道座に入れなかった仁太郎も自由に芸をすることができるようになる。
明治維新が千載一遇のチャンスをもたらし、芸の開花につながる。ここに後の津軽三味線の発生にいたる歴史的転換点があった。
ここからが三味線弾きとしての仁太郎の快進撃の始まりである。
明治維新後の芸能の開放によって自由に芸ができる環境を得た仁太郎だが、門付けを生業とする坊様「仁太坊」として公に活動を始めるにあたって、もうひとつ重要な意味を持つ制度改革が行われていた。
明治4年(1871年)の虚無僧(こむそう)制度の廃止による尺八の開放だ。
虚無僧とは普化宗(ふけしゅう)の修行僧のことを言う。普化宗は「尺八を吹くこと」を悟りへ道とする禅宗の一派で、武家出身でなければ入門が許されなかった。尺八という楽器は、明治維新以前の虚無僧が独占する法器として扱われ、一般人には触れることが許されない楽器だったのである。
だが、仁太郎は少年時代に失明した後、舟場を偶然訪れた虚無僧から尺八の簡単な手ほどきを受けており、仁太郎にとって尺八は少年時代からの憧れの楽器だった。
虚無僧制度の廃止以降、尺八は誰もが扱える楽器として開放された。仁太坊もまた誰に断ることもなく自由に門付けで尺八を吹くことができるようになった。ここから青年期の仁太坊の芸人人生が始まる。
坊様としての仁太坊は、背中に三味線を背負い、腰に尺八と竹笛を差す独特の格好で各地域のお祭りに姿を現し、評判を呼ぶ。
笑いを意図した漫芸である「謎かけ」も得意とした。客からお題をもらって「○○とかけまして○○とときます。そのこころは」と言葉遊びでうまいことを言う。謎かけは現代でも寄席芸として行われている。
さらに仁太坊が注目を集めたのは一人で八人分の芸をする「八人芸」だった。三味線、尺八、太鼓、声色など八人分の芸を一人で同時に行う大道芸の一種だが、明治維新以前は座頭が見世物小屋や寄席で行っていたため「八人座頭」と言われていた。
こうして着実に評判を得ながらも、仁太坊の芸のあくなき探究は続く。
弘前の芝居小屋「茂森座」で義太夫節を聴き、その音色に惚れ込んだ仁太坊が太棹三味線を初めて手にしたのは明治11年(1878年)のことだ。そして太棹を手にした仁太坊は、弦を激しく打ちつけダイナミックな低音の魅力を発揮する独自の奏法「叩き奏法」を編み出してゆく。その後、15歳の少年の古川喜之助(こがわ・きのすけ)を一番弟子とし、生活を共にする内弟子として迎え入れたのは明治13年のことだった。
喜之助を弟子に取った明治13年だが、この2年ほど前に妻のマンと結婚した仁太坊に第1子の作助が生まれたのは明治13年11月のことだった。
内弟子となった喜之助は仁太坊夫婦と一つ屋根の下で生活を共にし、三味線修業を始める。封建時代の芸風を踏襲することを良しとしなかった仁太坊の姿勢は、弟子の教育においても一貫していた。「人まねだったら猿でもできる。おまえはおまえの三味線を弾け!」との思想である。そして明治14年の晩秋の頃、喜之助は坊様として独立し、喜之坊として故郷の南津軽荒田に帰ってゆく。
仁太坊のもとに2人目の弟子志願者が現れたのは明治21年のことだ。長泥村(ながどろむら)から訪ねてきた太田長作(おおた・ちょうさく)である。長作は幼年期に失明。15歳で三味線弾きになることを決意する。仁太坊の通いの弟子となった長作は、杖を頼りにして長泥から神原まで歩いて通った。3年の修業の後に独立した長作坊は明治28年に長泥から狐森(きつねもり)に移り住むが、門下に300人の弟子を抱えるまでになった。後に名人と言われる梅田豊月(うめだ・ほうげつ)もまた長作坊の門弟の一人である。
時代は近代化の巨大な開発のうねりの渦中にあった。津軽の近代化の象徴として、蒸気機関車が初めて到達したのは東北本線の上野-青森間が全線開通した明治24年のことだ。そして日清戦争(明治27〜28年)日露戦争(明治37〜38年)の経て世界は帝国主義全盛期に入ってゆく。こうした激動の時代のなか、仁太坊の最後の弟子となる白川軍八郎(しらかわ・ぐんぱちろう)少年が弟子入り志願に訪れたのは、大正6年(1917年)のことであった。
【参考文献】
・松木宏泰『津軽三味線まんだら 津軽から世界へ』(邦楽ジャーナル、2011年刊)
・大條和雄『津軽三味線の誕生 民俗芸能の生成と隆盛』(新曜社、1995年刊)
・『新撰 芸能人物事典 明治~平成』(日外アソシエーツ、2010年刊)
・MichaeSl . Peluse「Not Your Grandfather's Music: Tsugaru Shamisen Blurs the Lines between "Folk,""Traditional," and "Pop"」( 『Asian Music』誌36号所収、テキサス大学出版部、2005年刊)
・GERALD T. McGOLDRICK「TSUGARU SHAMISEN AND MODERN JAPANESE IDENTITY」(カナダ・ヨーク大学大学院哲学科博士論文、2017年)
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