高橋竹山(1)
1970年代、木田林松栄のライバルとされた高橋竹山は津軽三味線を現代音楽として聴衆に認識させる契機をつくった一方の巨匠である。
竹山が東京・渋谷の小劇場ジァン・ジァンで定期演奏を開始したのが1973年12月だ。ジァン・ジァンは渋谷の公園通りの山手教会地下に1969年オープン。俳優・中村伸郎がウジェーヌ・イヨネスコの不条理劇『授業』を11年間にわたって毎週金曜に演じで伝説となるほか、吉田拓郎、古井戸、泉谷しげる、荒井由実時代のユーミンら、多くのフォークシンガーらが巣立っていった場所でもある。のちに「サブカルの聖地」といわれる。
竹山は渋谷ジァン・ジァンで1973年以降毎月ライブを行い、民謡になじみのなかった若者たちに澄んだ音色の三味線をしんみりと聴かせていた。
竹山は本名を定蔵(さだぞう)という。明治43年(1910年)に東津軽郡中平内(なかひらない)村に生まる。2歳で麻疹にかかり失明。両親は竹山が15歳のときに近くに住む戸田坊(とだぼ)に弟子入りさせる。戸田坊から三味線を習い、共に門付けに歩く日々を送ったが2年ほどで独立。大正15年(1926年)からひとり旅を始める。竹山の人生にとって三味線と民謡はあくまでも生きてゆくための手段だったが、竹山の音感には並外れたものがあった。昭和6年に民謡歌手の函青くに子の一座に入り、旅巡業の中で出合った浪曲三味線をレコードを聴き独学で習得したのだという。だが、紆余曲折は続き、鍼灸師になるため、昭和19年には34歳で靑森の八戸盲唖学校中等部に入学している。5年後、八戸盲唖学校を卒業し、鍼灸と按摩の免状を取得した竹山はさっそく自宅で開業するが商売はさっぱりうまくいかず。そうこうしている間に津軽民謡界で別格の存在とされていた成田雲竹(なりた・うんちく)から声がかかり熱心に口説かれた結果、再び三味線を手にした竹山は、成田雲竹の弟子となり「竹山」の名をもらう。こうして雲竹とコンビを組み、伴奏者して活動することになるのだった。
高橋竹山(2)
民謡歌手の大家である成田雲竹の弟子となった竹山は、1950年(昭和25年)以降、雲竹の伴奏者として雲竹引退までの14年間にわたり活動を共にし、各地を巡業する。雲竹と竹山の師弟関係は厳しいものだった。雲竹は竹山の独自活動を許さず、1963年にキングレコードから『津軽三味線 高橋竹山』をリリースする際も雲竹はなかなか首を縦に振らなかったのだという。竹山が津軽三味線の独奏による自らの音楽性を遺憾なく発揮し始めるのは、1964年に師弟関係が解消された後のことである。
全国的にその名を知られるようになったのは1971年、青森放送の制作によるドキュメンタリー番組『寒撥(かんばち)』の放送がきっかけだ。同番組はこの年の文化庁芸術祭優秀賞を受賞する。以降、竹山の名前の全国化とともに、音楽ジャンルとしての「津軽三味線」が全国的に認識されるようになってゆく。
また、サブカルの聖地と言われた渋谷ジァンジァンで定期演奏を開始する1973年から、竹山の津軽三味線を現代音楽として捉えた若者たちの間で人気が高まり、竹山ブームが巻き起こる。
この時期から竹山と木田林松栄を「弾きの竹山」対「叩きの林松栄」の対比で両者をライバル視する図式がメディアを通して喧伝されてゆくが、「三味線界のジミヘン」とも言われた竹山の音楽性が既存の邦楽の範疇を大きく越え出るものであったことは間違いないであろう。1986年にはアメリカ合衆国での7都市10公演を敢行し、米紙ニューヨーク・タイムズ掲載の論評で「名匠」との賛辞を受ける。このことが津軽三味線の世界化のさきがけとなった。
2021年6月、新興のレコードレーベルVOLUKUTA(フォルクタ)から「岩木即興曲」の京都・円山公園音楽堂でのライブ音源を米国人ジャス・ベーシストのビル・ラズウェルがリミックスした12インチアナログ盤がリリースされた。
生誕から1世紀を経てもなお、竹山が切り開いた新たな音楽性は、世界の音楽の未知の可能性を示唆しているといえるであろう。
【参考文献】
松木宏泰『津軽三味線まんだら 津軽から世界へ』(邦楽ジャーナル、2011年刊)
山田千里編『津軽民謡の流れ』(青森県芸能文化研究会、1978年)
高橋竹山『自伝津軽三味線ひとり旅』(新書館、1975年)
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