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津軽三味線Wiki

8.1 ⼩⼭貢 家元インタビュー








2024 年、創設60 周年を迎えた⼩⼭会。⼆代⽬襲名から36 年、⼩⼭貢家元に話を

聞いた。聞き⼿︓獅⼦道・⼩⼭貢⼭、編集・構成:杉本健太郎

(2024 年7 ⽉、東京・⽬⿊)



目次

  1. 三味線を始めたのは17 歳、聞いてなんとなく覚えていたから早かった

  2. 浅草の⺠謡⻑屋に浅利みきさんやいろんな⼈がみんないた

  3. 「⽇⼤にすごいのが⼊ったぞ︕」

  4. 「あんたまだこんなところにいるの︕プライド持ってやんなさいよ︕」

  5. 「⺠謡バブル」でギャラが跳ね上がった

  6. ⽵⼭さんは「別格の王者」だった

  7. 浅利さんの伴奏をすると⼀の⽷しか残らなかった

  8. 東ざわりと名取芸名制を導⼊、最初は⽊⽥の御⼤が⼤反対した

  9. A・JYOTA(ア・ジョッタ)はちょっと時代が早すぎた

  10. ドクターKとの出会いからベンチャーズのCDを作った

  11. 「なんであそこばっかり優勝するの︕」

  12. バブリーな頃はとりあえずみんな名前を欲しがった

  13. ⽩い⼿袋をはめてブラックライトで骸⾻みたいに⼿が動く

  14. 東京駅で中国の窃盗団に三味線を盗まれた

  15. 「30 秒でイントロお願いします︕」澤⽥さんはぴったりできた




1.三味線を始めたのは17歳、聞いてなんとなく覚えていたから早かった

⼩⼭貢⼭ ⼩⼭流に関しての記事が掲載されている過去の⾳楽雑誌をいくつか取り

寄せたんですけど。


⼩⼭貢家元 (『バチ2』2004.VOL.2 を⼿に取り)こんなのも出てました︖

へえ︕


貢⼭ 記事では「早く三代⽬に譲りたい」と仰っていますね。


家元 もう20 年も前ですもんね。「40 周年」って書いてあるから。この間、60

周年(2024 年4 ⽉)をやったから。あれで⼀応もう区切りをつけたんです。だか

ら来年には息⼦の豊が三代⽬貢を名乗るか、豊をそのまま名乗るか。うちは会社を

やってるんで会社はついこの間チェンジしたんですよ。名義が豊が社⻑になりまし

た。襲名披露は今のご時世なかなか出来ないですよね。


貢⼭ 三味線を始めた頃のお話をお聞きしたいのですが、過去の⾳楽のインタビュ

ーでは宗家から「やってみなよ︕」と⾔われて始めて、その当時、同年代でちょっ

と上⼿かった⼈がいて悔しくて練習したという記事があったと思います。


家元 ⾼校2 年の17 歳のときに無理やりやらされました。本格的にやりはじめた

のは20 歳ぐらいから。それでしばらくしてから何周年かの記念公演か何かがあっ

たのかな。杉並公会堂でね。後ろの⽅に合奏で出て、隣に同じぐらいの年代の⼈が

いたんだけど、稽古場でもちょっと会っていて「あ︕あの⼈だ」って。顔は知って

いた。その⼈の隣で弾いてたらその彼は⼤して上⼿くはなかったんだけど、⾃分よ

りは弾けていたんです。それからちょこちょこ稽古場で⾒かけるようになって。

「またいるなあ」と思って。その後にまたどこかで会ったのかなあ、そうしたらや

っぱりお稽古の度合いが⾃分よりちょっと進んでいる。⾃分がいくらやっても必ず

⼀歩先に進んでいるから。あれ︖と思って。せめてその⼈にだけは負けたくない︕

と思って、⽬標はその⼈みたいな感じでしばらくやっていた時期がありました。そ

の後、その⼈はそろばん⽇本⼀になって。「そろばん塾をやる」って⾔いだして三

味線はやめちゃった。その⼈はやめたんだけど、それから続けるようになったって

いうかね。


貢⼭ 貢翁先⽣に習っていたんですか。


家元 少しだけね。あとは独学で。合奏曲は聞いてなんとなく覚えていたから。当

時は家も⼩さかったし、「稽古場」って⾔っても⼩さな部屋でやってるので⾃然と

聞こえてくるから「あ、この曲だ」って。だからやってみたら早かったんです。

「聞いてた」っていうか、⽿に⼊っていたからね。帰ってくれば⾃分の部屋なんか

当然ない。そこでお稽古してるのはわかっている。すぐ荷物を置いてどこかに遊び

に⾏かないと。家全体を使っちゃってるからね。そんなに良い暮らしはしてなかっ

たんです。昔のアパート暮らしの頃だった。⽬⿊区東⼭っていうところで。昔は⽬

⿊区上⽬⿊と⾔ってた。共同便所のアパートに住んでいて。



2.浅草の⺠謡⻑屋に浅利みきさんやいろんな⼈がみんないた

貢⼭ ⻘森には何歳ぐらいまでいらっしゃったんですか。


家元 ⼀年いるかいないかです。すぐに浅草に出てきちゃったから。だから私はほ

とんど東京の⼈なんですよ、向こうで⽣まれたっていうだけで。今の平川市、平賀

病院で⽣まれて。宗家は東京に出稼ぎに⾏っていた。そのうちに「東京はたべてい

けるよ」って呼んでもらって浅草に。その浅草の⻑屋に浅利みきさんやいろんな⼈

がみんないた。⾦沢明⼦さんのご両親もいたのかな。そのうちに今度は出世した⼈

が⽬⿊に移った。そのうちに宗家を追っかけて、⾚⽯常勝さんっていう⽅とか村上

勇⼀さんという踊りの⼈とかも出てきた。浅利みきさんも来ました。


貢⼭ 17 歳までは三味線には触っていなかった。


家元 17 歳まで弾いていなかったけど、聞いていはいたので、合奏についてはメロ

ディーは⼊っていました。なんていう曲か知らないけど聞いたことあるなと。ちょ

っとやったら「これ、あいや節っていうんだ」とか。ポジションもわからなかった

けどメロディーは何となく覚えてたのでやってみたらすっとできました。



3.「⽇⼤にすごいのが⼊ったぞ︕」

貢⼭ ⼤学時代も三味線を弾いていた。


家元 ⼤学でもやってます。⽇本⼤学に「⺠謡研究会」っていうのがあって。あ

と、⼤東⽂化⼤学、千葉商科⼤学、明治⼤学にもあった。「クラブ」としては認め

られてなかったから「研究会」という形だった。関東で6 ⼤学ぐらいあったのか

な。そこを回って交流を深めて。そこで津軽三味線をやってるのが⼀⼈もいなかっ

たから。⼊っていったら「⽇⼤にすごいのが⼊ったぞ︕なんか本家のところの息⼦

だぜ︕」って⾔って。だけど当時の先輩から「お前は三味線弾けるんだから三味線

は弾くな、踊りをやれ︕」って⾔われて、⼀年⽣のときは踊りをやっていた。1 年

⽣だったから三味線は弾かせてもらえなかったですね。「お前はもう弾けるんだか

ら」って先輩に⾔われて。


貢⼭ ⺠謡研究会では細棹が基本ですか。


家元 基本は中棹でした。当時は宗家が研究会に「津軽三味線やってくださいよ」

という思い⼊れで2丁プレゼントしました。私も演奏出来るかなと思ったら「お前

は三味線弾けるんだから踊りをやれ︕」みたいな。「三味線は俺らがやるから︕」

って⾔ってたんだけど先輩はあまり上⼿くなくてね。 4.「あんたまだこんなところにいるの!プライド持ってやんなさいよ!」

貢山 その後は民謡酒場にお勤めに。

家元 民謡酒場っていうか、道玄坂の「ふるさと」っていう民謡酒場みたいな感じの店にお勤めしていて。夜は毎日演芸があるから。夕方から行って詰めて夜まで。お昼ぐらいから…


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